sabakubakubakuの日記

発達障害児を育てる発達障害ワーキングマザーの日記

困り感の解消に役立ったものリスト

困り感について思いついたことをつらつら書いてみましたが、自分なりに役立ったと思う事柄や考え方などを列挙してみようと思います。

 

「時間感覚」

・アナログ時計(時間が視覚的にわかる)

・タイムタイマー(残り時間が視覚的にわかる)

・週間カレンダー(横に数週間分並べると、予定が視覚的にわかる)

・1日1ページのスケジュール帳(先の予定を書き込んでおき、毎日確認すると、その日が来たら思い出すことが出来る。時々まるで秘書を雇っている様な気分になる位、役に立っています)

 

「自己肯定感の回復」

・カウンセリング(お金も時間もかかるけれど、この先何年も鬱々と生きるよりマシと思って通いました)

・書籍(セラピー、心理学、発達障害脳科学の本をいろいろ読み漁りました。知識をつけて理解することで、自分の心に何が起きたのか、なぜ自己肯定感が損なわれてしまったのかの理解が深まったと思います。)

・オラクルカード(元気が出ないときに手にとって眺めたり、カードのメッセージを読んでみたりしています。私が気に入っているシリーズにはネガティブな事が書かれていないので、寝る前に見ると落ち着く感じがします)

 ・心療内科(元気が出なさすぎる時は鬱の薬を飲んでベースラインを維持してやり過ごす)

 

「記憶力の補完」

・イメージを思い浮かべる(覚えておきたいことを脳内に映像で印象づける)

マインドマップ(キーワードを書き出して絵を描き込んだり色を付けると、頭の中でどこらへんに何を書いたかを何となく思い出せる)

・自分のワーキングメモリが小さいことを意識する(何事も覚えていることができない前提で行動する。メモを取るときは自分向けではなく背景を知らない他人に伝えるつもりで書く。)

 

「ややこしい仕事を片付ける」

マインドマップ(ブレイクダウンした内容を思いつくままに書けるので、箇条書きでto doリストを作るよりも楽。to doリストだと書き出した項目のウェイトがどれも同じに見えてしまうけれど、マインドマップだと書き込みの量や色やイラストで重み付けをしやすい)

・色分けする(複雑なExcelの表や書類は、見るべき部分や記入が必要な箇所などに色を付けると格段に作業が楽になる)

ADHDの薬(ストラテラを処方してもらって飲んでます。ADHDならではのひらめき力が鈍るのではと心配しましたが、あまり変わらない様に思います。)

・とりあえず取り掛かる(フリーズして何もしないよりははるかにマシなので、やりやすそうな所から手を付けると、そのうちエンジンがかかってくる)

 

「金銭感覚」

・定期預金と借越サービス(預金残高があるとお金があって使っても良い気がしてしまうので、自動積立で定期預金になるようにしてしまう。定期預金があるとその範囲で預金残高をマイナスにする事ができるので、敢えてマイナスのままにしておくと、お金がなくて使ってはいけない様に思えてちょうどいい。一種の借入なので利息がかかってしまうが、浪費防止の費用だと考えるようにしている。) 

困り感の続き3 ー 先延ばし癖がひどい

「いやな課題に取り組むのが苦痛で先延ばしにしてしまう」

「ぎりぎりにやっても何とかなると思っているので、事前に何かをする意欲が持てない」

 自閉傾向のある人の中には、記憶力がとても強かったり、見た物を写真の様に鮮明に覚えていることができる人が珍しくないと聞く。どうも、だんなも息子もそう言った傾向があるらしい。だんなは学生時代、教科書をじっと見ていると、文字をそのまま覚えることができて、他の人もそうだと思っていたらしい。

 私もそこまでではないけれど、強く印象に残っていることなら頭の中に静止画の様なものが思い浮かぶし、子どもの頃の出来事を思い出して、つい昨日のことに感じる事もよくある(自閉傾向がなくても大体皆そうなのかも知れないけど)。

 だから何なのかと言うと、自閉症スペクトラムがあると、過去の出来事のネガティブな印象をいつまでも忘れない(忘れたくてもそれが出来ない)ので、一度嫌な思いをしたことは二度とやろうとしないと言うのは本当なんだろうと思う。

 私は職場でよく、気の進まない仕事を先延ばししてしまい、後で締め切りに追われ、もっと早く、事前にやっておけば良かったのにと思う羽目になる事が、非常に多い。自分でもかなり理解に苦しむ程、先延ばし癖がひどいのだ。

 先延ばししてしまう仕事に共通点がないかと、特徴について考えてみたところ、私の場合は下記の様なことが思い浮かんだ。

1:何となく面倒くさそうに見える(初めての仕事)

2:ややこしくて取り掛かり方がイメージできない(初めての仕事)

3:以前やったときに、手間や時間がかかって嫌な思いをした(経験のある仕事)

4:以前やったときに、ぎりぎりに取り掛かって何とかなった(経験のある仕事)

 1と2は、視覚的な印象がネガティブだと気持ちのスイッチが入りにくいという事なのかも知れない。3と4は、過去の記憶が頭から離れずにこだわりに様なものになってしまい、行動がパターン化してしまった様に思える。いずれも、過去の嫌な記憶に引きずられてスタートダッシュが遅れたり、ぎりぎりにやって何とかなったと学習(誤学習?)している事が原因なのではないかと思う。

 私が過去のトラウマ体験を臨床心理の先生と癒すワークをした時はいつも、嫌だったことや傷ついた出来事を思い出して、それを好ましい体験のイメージと置き換える(父や母にこんな事を言われたが、そうではなくてこう言ってほしかったといった事を考え、その場面で言ってほしかったこと、してほしかったことが起きている場面を思い浮かべる)という事をした。他の人にこの方法が有効かどうかは分からないし、嫌な出来事の詳細を具体的に思い出さない方がトラウマワークがスムーズになるという話を聞いた様にも思う。ただ少なくとも、私にはこのワークは有効だったと思っている。

 それならばおそらく、過去一度やって嫌な思いをした仕事や、締め切り間際にやっつけ仕事をして何とかなってしまった記憶も、好ましい方法で仕事をして、快い結果が得られた体験のイメージと置き換えれば良いのではないだろうか。カウンセラーの助けを借りずに自分ひとりで出来るかどうか分からないけれど、今晩眠る前に瞑想してみようかと思う。

 また、複雑で面倒くさそうに見える仕事をやらなくてはならない時に、ぐずぐずしてしまいエンジンがかからない時は、取りあえずその仕事の中でも簡単そうに見えるところから手を着けてみるのも有効だと思っている。「闇雲に取り掛からずに、まず全体を把握して計画を立ててから始めるべき」と言う人もいるし、私の心というか脳のなかにもそう囁く何かが棲んでいる様な気もする。でも、見えないものについて考える力が弱い人間にとって、全体を把握するなどという事は、かなりハードルが高いし、考えてみたとしても見方が歪んでいて間違った結論になったり、えらく時間が掛かったりしてしまうのだ。時間をかけて間違った計画を立てる位なら、分かりやすい所から手を着けて、感触をつかみながら見通しを立てたって、悪くはないと思う。 

 

困り感の続き2 ー 人の話を口頭では理解しづらい

「口頭で言われた事をなかなか飲み込めない」

「人の話が覚えられない」

 これは、発達障害の特性なのか、私の得意不得意の谷なのか分からないけど、おそらくその両方だと思っている。

 私はよく、口頭だけの説明や指示がよく飲み込めず、同じ事を数回聞き返してしまう事がよくある。それを初めて意識したのは30歳前後の頃だったと思う。職場で「話がちゃんと通じているのに、ふざけて(意地悪で?)わざと何度も聞いているのかと思った」と言われ、分からなかったから聞いているだけなんだけどなあと素で思った覚えがある。

 子どもの頃はどうだったか思い出せないが、学校の一斉授業に全くついて行けなかったとか、教師の指示が理解できなかったといった記憶はないので、おそらく大きな問題はなかったんだと思う。もしくは、学校生活の範囲では起こる事のパターンがある程度決まっているから、それほど困った事は起きなかたのかも知れない。

 最近になって、自分が視覚優位者だったという事に気がついて、こういった事で悩んでいた理由がわかり、非常にすっきりした。人に何かを言われても理解できず、この人は阿呆なんじゃなかろうかといった目で度々見られ、自分でもそうなのかも知れないと思っていたが、それには理由があったのだ。

 私は最近、自分が発達障害の診断を受けた際に、WAISの検査を受けた。スコアは全般的にわりと高かったのだが、ワーキングメモリに関する領域が低く、そのアンバランスが発達の凸凹を引き起こしているという事だった。人が話している内容が理解できないのではなくて、ワーキングメモリが弱いため、話を覚えておくことが難しいという事なのかも知れない。話を聞いている途中で、始めの部分が記憶からこぼれてしまうので、1度聞いただけでは話がつながらないのだろう。

 記憶術や脳トレなどでワーキングメモリを強化できるのだろうかといろいろ調べてみたが、今のところ私は「できない」という結論に辿り着いており、鍛えられないのならば何とかして代わりの方法を考えるのが良いのではないかと思っている。(これから考えが変わるかも知れない)。

 私が自分にとって有効だと思っていることの1つが、イメージの力を借りることだ。人の話を耳から理解することについて言うと、相手の話が始まって、あ、なんだかややこしそうな内容だなと感じたら、話の情景を思い浮かべながら聞くようにしている。

 なるべく具体的に、印象に残るようなイメージ(極端に誇張したような感じ)を頭に描きながら、目を閉じて苦悶の表情をかすかに浮かべて話を聞くので、相手からは少し変な人だと思われているかも知れないけど、話をよく理解するためにやっているのだから、背に腹はかえられない。

 話が少し逸れるが、TOEICのリスニングテストはほとんど、会話やアナウンスの音声を聞いて、それに関する質問に答える(答えを選択する)という試験方式なので、人が話している内容を覚えていられない私にとっては、かなり絶望的だった。しかし、「情景をイメージしながら聞く」ようにしたところ、かなり話の内容が頭に残るようになり、解答するのが楽になったと思う。

 職場の身近な人で、理解を示してくれそうな人には、自分は口頭だけで言われた事は飲み込みにくいので、何度も同じ事を聞いてしまうかも知れないけど、悪意はないと言うことを、なるべく伝えるようにしている。私の上司は西洋人なのだが、その話をしたところ、「ah, you are a video-person」とあっさり納得してくれた。その人がたまたまそう言った認知特性について知っていただけなのか、海外では日本より理解が広がっているのか、どちらなのかは分からない。電話で話すことが多く、私が単純な質問を聞き返すと苛立ちを隠そうともせずに言ったことを繰り返していたので(たぶん英語が通じなかったと思われていたのだろう)、分かってくれてほっとしている。

 また、イメージを記憶に結びつけるという事では、マインドマップが良いのではないかと考えている。コンピュータを発明したフォン・ノイマンは、自分の頭の中に大きなホワイトボードの様な物を持っていて、そこに書かれている事を頭の中で思い浮かべて「見る」事が出来たと、何かで読んだ様に思う。私も自分が作ったマインドマップなら、100%写真の様に思い出す事は無理だが、ある程度は細部をイメージして思い出す事が出来る。マインドマップは頭の中のもやもやを吐き出すためにばかり使っていたけれど、これからは記憶を助けてもらう目的でもっと書いてみようかなと思う。

困り感の続き1 ー 自己肯定感が低い、時間感覚が弱い

 「何でもとりあえず自分が悪いと思ってしまう」

「相手の顔色を必要以上にうかがってしまう」

「言いたいこと、言うべき事を言うのに抵抗がある」

 これは、発達の特性から来ているのではなく、二次障害のトラウマなんだろうと思う。子どもの頃からしょっちゅうダメ出しされて、自分でも時間の観念がなくグズグズしていると嫌気が差していた。学校の成績は悪くなかったが、かえって、やればできるのに怠けている、根性がない、努力不足、甘えだと、周囲も自分も思っていた。

 おまけに父は今思えばどう考えても自閉症アスペルガーで、そんな父に対して母もうんざりしており、おまけに私は(大人になって子どもができるまで誰も気づかなかったけど)発達障害で育てにくい子だったに違いない。大きなパニックは起こさなかった(と思う)が、かんしゃく持ちで、しつこく、他人の神経を逆なでする言動が多かったと、自分でも思う。おそらく、愛着障害の問題もあった。

 中学校の頃から周囲になじめなくなって不登校になり、大人になってからもアルバイトや仕事を何度もばっくれた。いろいろ自分と折り合いをつけて何とかやっていける様になったのは、カウンセリングに通ってトラウマワークに取り組んでからだ。時間もお金も結構かかった。それでもうつになって今も薬を飲んでいる。

 若い頃は子どもを持つなんて自分には絶対無理と思っていたけど、カウンセリングでインナーチャイルドワークを受けて元気になるうちに、ふと自分が赤ん坊を抱いているイメージや、ゆりかごの周りをいろいろな年代の自分(インナーチャイルド)が取り囲んで、眠っている赤ちゃんを見守っているといったイメージが浮かぶ様になっていった。

 それからしばらくして、今のだんなと結婚して息子を授かったところ、4歳の頃に発達障害と診断された。驚いたけど、今までの自分の悩みの数々に答が出て成る程と思い、どうしたらいいのか見当がつく様になってきた。

 以前に比べたらだいぶマシになってきたと思うけれど、それでもまだ、自己主張や要求、断るといった事が苦手だ。自分を卑下して粗末にしていた方が、本当は嫌なのに、何だか落ち着く。汚部屋にうんざりして部屋をきれいにしてみたけれど、やっぱり散らかっている方が落ち着くし、片づいた状態をキープする習慣もエネルギーも足りないと言った感じだろうか。そこそこ回復してきていたつもりだったけど、損なわれた自己肯定感を人並みの水準にもっていくのは、やっぱり簡単ではないんだと、日々思う。

 ただ、いつの間にか、かなり沈んで落ち込んでも、どうにかやり過ごして浮上できるようになってきた。相変わらず、落ちている時は不安でたまらなく、ものすごくしんどいけど、好きな物を食べて、アファメーション的なことをして、薬のんで瞑想CDを聞きながら眠れば、そのうち大丈夫になると、何となく分かっている。年をとって図々しくなってきたのか、経験でカバーできる様になったのか、理由ははっきり分からないけれど、レジリエンスの力がついてきているのを感じる。カウンセリングや心理学的な事を勉強したり、発達障害のメカニズムについて理解が深まってきたのが効いているのかも知れない。

 

「時間の感覚がおかしい」

「スケジュールや締め切りを意識できない」

「人の気持ちを考えるのが下手」

 この3つの発達特性は、私が生活していく上での困り感がかなりクリティカルな項目の一部だ。どれも、社会人として、何か失敗をやらかした時のダメージが大きい。

 前にも書いた様な気がするが、私は時間の感覚がかなりおかしい。例えばデジタル時計の表示が17:10でも17:40でも、大して差が無い様に感じられる。息子を保育園に通わせていた時はしょっちゅうお迎えに遅れて超過料金を払っていた。

 日付についても同様で、今日が6月12日だとして、締め切りが6月19日でも6月23日でも、どちらも同じくらいの余裕がある様に思えてしまう。と言うか、余裕があるのか無いのか、イメージが何も思い浮かばないというのが多分正しい。段取りを考えて見通しを立てるのも苦手だ。大きなタスクを細かいステップに分けて考えろと時間管理的な本には書いてあるが、それが出来れば苦労はしない。

 こんな感じなので、仕事に取り掛かるのはいつも大抵締め切りの前日だ。当然、あらかじめ準備しておかなかったので出来ない箇所が出てきたり、深夜まで掛かってやっつけ仕事をしたりといった事になる。仕事以外の場面でも大して変わらない。

 また、他人の感情を汲み取る事が出来ずに的外れな発言や行動を繰り返してしまうという事については、どういった結果になるかは言うまでもない。孤立して(孤立すること自体は大して気にならない)、周囲の協力が得にくくなり、いろいろやりずらくなる。

 最近ふと、時間感覚がおかしいのも、他人の感情を読み取りにくいのも、どちらも「目に見えないもの」だからなのかも知れない、根っこは同じなのではと思う様になった。たぶん、目に見えないから分からないのだ。

 発達障害で認知に偏りがある場合、大概は視覚か聴覚のどちらかが優位だと知ってから、自分はおそらく視覚優位なんだろうと思っている。視覚支援の手法について書かれた本を読んだ時にも、自分にフィットすると感じすとんと腑に落ちた。もし、時間や日付、他人の感情が、目に見えなくて分からないのだとしたら、見える様にすれば、視覚的に感じられる様にすれば、良いのではないだろうか。

 時間については、かなり前から直感的にその事に気付いていたので、職場では自分の机の上にアナログの目覚まし時計を置いている。同僚からは、「時間なんてパソコンの画面の隅にいつも(デジタルで)表示されているじゃないですか」と、時々あきれられるが、自分にはこれが必要なのだ。本当は残り時間が目に見えるタイムタイマーも置きたいが、さすがにそれは恥ずかしい。あ、でもアプリやPC用のウィジェットを使えば目立たないかな。ちょっと探してみよう。

 日付についても、最近やっと自分なりの対応方法に落ち着いてきたと思っている。横軸に日付、縦軸に時間が表示された週間カレンダーを、3週間分並べて机の前に貼っておくのだ。これで、スケジュールが視覚的に把握できるので、締め切りまでの残り日数が5日なのと9日なのを、同じくらい時間があるとは思わなくなった(こうやって文章にしてみてもやっぱり、あと5日とあと9日の違いは、不思議なことに実感出来ない)。

 また、1日が1ページずつになっているシステム手帳を使い始めてみたところ、これもフィットした。私は別に、毎日が分刻みのスケジュールで忙しいといった事は無いので、予定を書き込むには見開き1ページの月間スケジュールで充分なのだが、1日が1ページという単位だと、これもまた月日を視覚的にとらえることができるので、予定の管理が本当に楽になった。何度もしつこいが、月ごとのスケジュール表だと、締切が翌月の3日でも30日でも、どちらも「来月」で「まだ先」だと思ってしまうのだ。

 じゃあ、人の感情はどうやったら視覚で認知できるかという事については、まだアイディアが浮かばない。以前どこかで、人が怒っている顔や、笑っている顔、困っている顔などのカードと、「嬉しい」、「悲しい」といった、感情を表す名称のカードをマッチングさせるというトレーニングを見たことがあるが、そんな要領で相手が感じていそうな感情に名前をつけて、パターンとロジックで推しはかるのが良いかも知れない。

 

 困っていることについては書きたいことがいくらでもある。長くなりすぎたので、また後で続きを書くことにしよう。

 

日常の困り感 ー 枝葉にこだわる、謝れない

仕事上や日常生活で困っている事を思い浮かべながら、これって自閉的な発達特性が原因かもと思った事や、実行している対応方法などについて、いろいろ書いてみようと思います。

 

「物事が決められない、判断力が低い」

「細かいことにこだわり過ぎてしまう」

 私の場合、何かを決めないといけない時に、周囲の人が自然にスルーしている様な事が気になって仕方がないという事が度々ある。誰かが「こうでこうで、こうだから、こうしよう」と発言すると、「でもこういう場合もあるよね、こういう可能性もゼロではないし。そもそもその判断の根拠が本当に正しいか検証が必要なのでは」などと、いろんな事が頭の中を占めてしまう。

 でも今までの経験上、それを口に出して指摘すると、しかもその発言者が場の中心的な人物だったり、発言内容が大半の人たちに支持されていたりすると、「じゃああなたが勝手に決めなよ。私たちは知らないから。」もしくは「そんなに言うなら自分で確認して下さい。」といった事になりがちなので、たいてい黙っている。そして黙っていると、何も考えていないんだな、鈍くて話について来れていないのかも、等と受け止められてしまう事になる。

 また、何かの資料を作っているときも、あれも盛り込まないと、この点にも触れないと、ここはこういう前提だと補足しないと、などといったことが次々に出てきて、いつまで経っても完成しない。やっとこれでいいと思える内容で仕上がった頃にはとっくにタイミングを逃していて、役に立たない資料になっていたり、情報が多すぎて重要なポイントが分かりにくく、誰にも読まれなかったりといった事になってしまう。 

 細かいことにこだわってしまう(全体像ではなく細分に目が行ってしまう)、考えられる可能性の重要性がどれも同じに思えてしまう(ゼロイチ思考)、といったことが原因なのかも知れないと、最近思う様になった。自閉症の原因と聞いた、脳神経の刈り込み不足という話も思い起こされる。

 いろいろな可能性に思いを拡散させてから、「あ、でも定型発達の人が気にする範囲はこのへんまでかも」と収束させることができたら、ちょうど良い気がする。自分が、細かいことが見えすぎる「自閉メガネ」をかけている事に気づき、その度数を調整するという感じのことが意識的にできたら、困り感を減らせるのかも知れない。

 

「謝るのが苦手」

「言葉へのこだわり」

 いつか出席した自閉症のセミナーで、「一番病」という言葉を聞いた事がある。ゲームで自分が負けるのが我慢できない、スポーツなどで1位にならないと気が済まない、という、自閉症の参考書によく書いてあるあれだ。

 うちの息子にもその傾向があり、家ですごろくやトランプをしていて自分が負けそうになると途中でゲームを終わりにしようと言い出したり、盤面をひっくり返したりする事が時々ある。私自身には子どもの頃にそういった事をした記憶がないので(忘れているだけかも知れませんが)、ああ、息子には出たんだなと思っていたのだが、最近やっぱり自分の中にもそういった面があることに気がついた。

 どうやら私は、誰かに謝罪すると相手に負けたような気がして謝れない事があるらしい。いつも誰に対してでもという訳ではないが、大概は似たタイプの相手に対してそういう感情が起きる事に気がついて、あ、これって一番病の一種かもと思ったら、謝ることが少し楽になった。「謝る=負け」というこだわりの存在に気づき、葛藤から距離を取れる様になったのかも知れない。

 また次に、実際に謝る段階では、特にそれがメールで謝罪文を書くような場合だと、「こう書くとこういう意味にも受け取られてしまうかも知れない、じゃあ何々もお前の落ち度だと突っ込まれるかも知れない、でもこの点に触れないと前後関係が成り立たない、かと言ってくどくど細かく書くと謝っている感が薄まってしまう」などと、延々と考えてしまい、大して重要性のないメールを1通書くのに1時間かかってしまったりする。

 そんな時にいつも思い出すマジックワードがひとつある。昔の職場の上司が社外に公表する文章を考えていて煮詰まったときに、「そうだ、日本語がよくわからない人が書いたという事にしよう」と宣言して、よくよく見ると論理が微妙に飛躍している文章を、もうこれでいいやと決定稿にしてしまったのだ。

 私も大抵、文章を書いていて深みにはまりそうな時は、この言葉を思い出して適当に切り上げることにしている。そもそも、他人の書いた文章なんて、大概適当に読み飛ばしたり、読み手の思い込みに沿って曲解されたりするのだから、その程度で良いのかも知れない。

 

 まだまだいろいろあるけど、くたびれたのでまた後で続きを書こう。今日はもう、薬のんで寝ようかな。

「勉強」療法にしがみつく

今年の春に支援級の息子が小学2年生に進級し、ふっと落ち着いて気が抜けたせいなのか、息子のためにと思って自分のやってきた事を振り返り、迷いと不安を強く感じるようになってしまった。

 

息子が発達障害と診断を受けたのは保育園の年中の途中だから、それから約2年半が経過している。その間私は、関連書籍を読み漁り、セミナーや勉強会にも手当たり次第に参加した。発達関係の講座に出席したら周りは専門職の受講者ばかりで一般の父兄は自分だけといったことも何度かあった。ひたすら突っ走って知識を詰め込んでいた様な気がする。

 

しかし、振り返ってわが子を見てみると、果たして本当にその成果が出せているのか、良い結果に結びついているのかという事が、はなはだ疑問に思えてきた。相変わらず息子は切り替えが下手でいつまでもぐずぐず食事をしていたり、寝る前に読んでいる本を切り上げられず、就寝時間が遅くなってしまったりしている。最近は公文を始めてみたが、宿題のプリントはいつもほとんど白紙のまま、次に教室に行く日が来てしまう。数万円のペアレンティング講座は都合4回くらい受講して認定まで受けたのに、全然実行できている気がしない。

 

発達障害について理解を深め、脳科学まで勉強し、人並み以上と自負できる程度には知識を仕入れてきたつもりだ。自分なりに最善の対応を学べていると思っていた自分の理想と、現実の息子とのギャップに、非常に焦りを感じ、何ひとつ実になっていないと自分が本当に嫌になる。うんざりして、落ち込み、疲れを感じて、うつの薬をまた飲み始めた。息子の将来が不安になり、やっぱり自分には子育てなんて無理だったんだと泣きたくなる。ここのところしばらくは、そんな気分が続いていて、今もまだ落ちている。

 

でも何だかふと、自分が必死で発達障害について勉強していたのは、単なるしがみつきだったのではないか、現実逃避に近いものがあったのではないかという気がしてきた。息子の療育を始めて以来、いろいろな人から、何々療法がお勧め、どこどこ式の教室で効果が出た、誰先生のこの本がいいといったアドバイスをもらった。自分なりに試したり取捨選択したりしてきたつもりだけど、時にはこの方法が最善、これをやらないとあなたの息子は将来犯罪者になってもおかしくないといった事を真顔で言われる事もあった。

 

そんな時私は、ああ、このお母さんは不安が強くて必死なんだろう、自分の選択した療育の方法に従ってさえいれば大丈夫と、ひたすら信じて心を落ち着かせようとしているのかも知れない、と感じていた。そして、自分はひとつの方法に凝り固まらず、いろいろな療育について学んで試して、いいとこ取りをしようと思ってきた。でも実は私も、「本を読んだり、セミナーを受講したりして勉強する」という行為に、しがみついていたのかも知れない。自分がひたすら勉強してさえいれば、自動的に息子の発達に良い影響が出る、とでも無意識に考えていたのではないだろうか。学んだ事や、仕入れた情報を実生活に落とし込むエネルギーが涸れてしまうまで、「勉強」に逃げていたのかも知れない。

 

30年くらい前に私が不登校になった時、私の母は表立っては私をなじったり責めたりはしなかったが、突然狐憑きのお祓いに行こうと言い出した事があった(非常にショックだったし、結局行かなかった)。当時は自分の事で精一杯だったので母の気持ちや葛藤を考える事など思いもよらなかったが、今考えると当惑や自責、不安などで混乱の極みだったんだろうと思う。当時はインターネットも無いし、発達障害という概念など普通の人は多分誰も知らなかった。不登校児も今よりずっと珍しかった。きっと、いろいろな人に相談しまくり、効果がありそうなことは何でも試してみたいという気持ちでいっぱいだったに違いない。今なら痛いほどよく分かる。

 

そんな母が、しばらくしてから、ふっと肩の力が抜けた様に、もう何か言っても仕方ない、なるようにしかならないから気にしないことにする、といった趣旨の事を、これもまた狐憑きの時の様に唐突に、私に宣言した。困難に遭遇すると、思い惑い葛藤してから、吹っ切れるというフェーズを辿るのだろうか。もし私も同じパターンを経ているとしたら、今は葛藤の終盤と吹っ切れの狭間にいるのかも知れない、と思いたい。

 

とりあえず、今は疲れを感じて元気が出てこないのは確かなので(うつの薬をまた飲む様になって、10点満点の3から4くらいには回復してきた気がする)、しがみついて詰め込んでいた「勉強」に対し、少し距離を意識してひと息ついてみようと思う。そのうち自然に、うちの家庭にフィットする方法やアイディアが、湧いてくるかも知れない。

罪悪感だったのか

どうも落ち込んで元気が出ない、ウツ気味だと思い、ちょっと気になっていた、「自分で心を手当てする方法(ガイ・ウィンチ著)」という本を買ってきた。書店で平積みになっているので、少し待ってAmazonマーケットプレイスで買おうと思っていた本だが、日曜の夕方にわざわざ駅前の本屋まで出かけてきました。果たしてその甲斐はあったと思います。

 

原題が「Emotional First Aid」となっており、ちょっと心が傷ついたけど、心療内科やセラピーに行くほどでもないといった時に、自分で癒やしというか気づきを得るためのヒントやアクションについて具体的に書かれている。テーマは拒絶体験、トラウマ、喪失、自己肯定感の低下などいくつかあったので、気になるトピックから読み始めてみた。どの章からも成る程と思える納得感が得られましたが、何となく1番後回しにして読んだ、「罪悪感」というテーマが今の落ち込みに最もフィットする感じがして、すとんと腑に落ちました。

 

罪悪感で心に深刻なダメージを受けるとか、セラピーが必要になったりするという発想を、今まで持ったことはありませんでした。でも考えてみれば、つい先日のエントリ(5月27日付け)で書いた、疲れの原因は大半が罪悪感かも知れない。夫の義母のケアをまともにしていない罪悪感、家の片づけを息子に教えることができていない罪悪感(散らかっていること自体はあまり気に病んでいないのですが)、口内炎がしょっちゅう出来てしまう様な食事ばかり息子に与えている罪悪感、仕事を辞めて発達障害の息子の療育や勉強、習い事に100%自分の時間を投入していない罪悪感、息子の学童のお迎えのために同僚を後にして退社する罪悪感、特性持ちのため学童関係の方々にスケジュール連絡や提出物を忘れて迷惑をかけている罪悪感、高齢になってきた実母に息子のお迎えや留守番を頼んでいる罪悪感、やろうと思って挫折している資格試験の罪悪感、などなど、本当にいくらでもある。一日中罪悪感にまみれて生活している様だ。

 

さらに、一緒に暮らしていて同じ境遇にいるはずの夫がこれらの事にほとんど全く悩んでいない様に見えるところに非常に腹が立つし、腹を立ててしまう自分に心が狭くて意地悪だとまた罪悪感を感じてしまう。

 

そう言えば私は何故だかもともと、何か悪いことが起きると大概の事は自分が悪いと自動的に思う傾向がある事を思い出した。逆に良い事があった時は決して自分が原因ではないと思ってしまう。あるいはそう思わなくてはいけないと、自分を抑圧しているのかも知れない。これはもしかすると、インナーチャイルドワークが必要な領域かも。自己肯定感や認知に歪みがある様な気がする。

 

自責傾向と言えば、もう何年も前のことだが、コミュニケーションスキルを改善しようと、飛び込み営業のアルバイトをしてみたことがある。一応事前に電話でアポを取ったりする事もあったのだが、電話をした相手に迷惑そうな態度を取られると、ちょうど良いタイミングで電話をかけなかった自分が悪い、話す内容を上手に整理しておかなかった自分が悪い等、とりあえず自分が悪いと結論付けていた。

 

そんな中、同僚の内に、相手に電話を切られてしまっても、「せっかく良い話しがあって電話したのに、話を聞かずに電話を切るとは何とアホな客だ(電話をかけた自分は1ミリも悪くない)」と考える人がいて、心底驚いた記憶がある。えーっ、そんな風に考えるのアリなんだと本当にびっくりと言うか、ギョッとしました。そしてそう割り切って考えている同僚の方が、ぐるぐるいろいろ考えて反省に反省を重ねている(と自分では思っていた)私よりも、営業成績が良かったのだ。案外、うちのだんなもそう言うタイプなのかも知れない。

 

冒頭に記載した本のおかげで、ここしばらく、多分息子の自閉症スペクトラムの診断や小学校の支援級入学以来、ずっと抱えてきたどんより感に、「罪悪感」という名前を付ける事が出来た。そして具体的にどんな場面に罪悪感を持ってしまうのかという事を思い返してみることで、それは本当に自分が悪いのか(同居の義母のケア不足は私のせいなのか)、本当にそうしなくてはならないのか(発達障害の息子がいるのに仕事を続けていていいのか(実際、辞めるべきとか言ってくる人がいるのです))、他に代替手段はないのか(実母以外にサポートを頼む方法はないか)、といった気づきと言うか、リフレーミングが起きた感じがする。気分が落ち込んでいた原因や背景に思いが至っただけで、問題が解消されていなくてもだいぶ心が楽になった。

 

気持ちはラクになったけど、でもやっぱり薬はもらいに行こう。口が渇いてイヤだけど、ストラテラもまた飲んでおこうかな。