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sabakubakubakuの日記

発達障害児を育てる発達障害ワーキングマザーの日記

私の仕事など

自分の仕事や経歴についてちょっと書いてみたくなった。私は今、そんなに大きくない外資系企業の経理責任者をやっている。一応マネジャーらしき役職で、経営会議的なミーティングにも出ている。このポジションに就いて数年経つし、前に勤めていた会社でも同じような事をしていて、昇進もしたから、どうやら何かの間違いでこの仕事を任せてもらえているという事では、恐らくなさそうだ、と思っている。

 

結構やりがいのある仕事で、裁量もあり、いろいろ試行錯誤する楽しみもある。自分の仕事をまあまあ気に入っているという事は、とてもありがたい事なんだろうと、これまで重なった幸運に感謝している。

 

今思えば、発達障害でいろいろロクデモナイ事をしてきた気がするし、今もまだそういった部分があると思うけど、発達障害というか非定型発達の特性のおかげで、うまくやってこれた部分も大きいと、改めて思う。

 

まず、運良く英語、会計、ITのスキルや知識と相性が良かった。英語については、正真正銘に中学英語しか(学校では)習ってないし、大学入試英語なるものを勉強したこともない。でも、何だか知らないけど、社内では留学してた人や帰国子女の次くらいに英語が話せる部類に入っている。英語がもともと好きだったというのもあるかも知れないけど、言語に才覚を現す自閉症傾向の特性が自分にあるのではないかと思う(自閉症傾向やサヴァン症候群気味の人で、何カ国語もの外国語を難なくマスターする人がよくいるという話を、どこかで見聞きした様な気がする)。

 

それから会計。経理の仕事は数を扱うパズルの様な部分があり、非常に面白い。外国語同様、数学も自閉症傾向と相性がいいらしい。また私は多分ちょっと違うけど、アスペルガーで細かい点にこだわりが強いタイプの人にも、数やデータを扱う仕事は多分向いている。ちょっとくらい変人で細かくて空気が読めなくても、経理職なら何となくそれもアリな気がする。

 

ITというかパソコンやシステムの仕事については、特に多くを説明する必要もないくらい、経理職以上に自閉症気味の人に向いた仕事だと思う。そして経理とITは切っても切り離せない仕事内容だ。

 

という訳で、私は運良く、一般的にも「三種の神器」と考えられている、英語、会計、ITと自分でもそうだと思えるくらい相性が良く、その全てが必要不可欠な仕事に就いて、毎日(基本的に)楽しく会社に行っている。

 

アスペルガー傾向のため、空気読めない人になって周囲から浮くこともあるし、ADDのせいで忘れものや勘違いが多かったりという事もあるけど、発達障害について自分なりに知識を蓄え、自己理解を常に深めようとしているためか、何がまずいか、どう方向修正したら良いかという事が、自然に浮かんでくる(自分でそう思っているだけかも知れませんが)。

 

また、コミュニケーション下手で人付き合いも不得意だし、気がつくとしょっちゅう社内でぼっちになっているけど、自閉症傾向の自覚があるからあまり気にならない(多少寂しくなったり、傷ついたと感じる時もあるけれど、基本わりと平気)。

 

時々、もし自分が子どもの頃に、親や教師など周囲の大人がもっと発達障害の特性を理解して配慮をしてくれていたらとか、いま息子が受けているような療育やソーシャルスキルトレーニングを受けることが出来ていたらとか、せめてトラウマで傷つく事なく、自己肯定感を持って育つことが出来ていたら、とか、もしも、もしも、という思いがいろいろ湧いてくる事がある。もっといい仕事に就いていたかもとか、誰が聞いても立派だと感じる学歴を手に入れて、躊躇なくFacebookのプロフィールを埋めていたかもとか、読者や受講者の立場で興味をそそられている脳科学や心理学の分野で、最先端の研究に参加出来ていたかも知れないとか、思いは尽きない。

 

でもいつも結論は、もし自分が今までと違う環境で育って、違う生き方をしてきたとしたら、たぶん今私が(だんなそっちのけで)可愛がっている息子を授かっている事はなかったし、あったかも知れない仮定の人生と息子を取り換えたいとは微塵も思わないので、これで良かったんだ、という事になる(仮定の人生プラス今の息子、という結果もあり得たかも知れないと思うと、若干ブルーになりますが)。

 

それに、普通に学校に行って、高校や大学に進学し、普通に就職活動していたら、おそらく発達障害にも気づかず、自分が自閉症気味などとは夢にも思わないまま大人になって、今以上に生きずらさを抱える事になっていたかも知れないと思う。多分。

 

だからやっぱり、今日も、これで良かったんだという結論になる。

 

 

 

 

何がしたくてこんなことをやっているんだろう

自分自身の事をもっと理解したくて、仕事のパフォーマンスや生活の質を上げたくて、息子の療育のために、単なる知的好奇心から、脳科学や心理学の本を読みあさっている。記録をつけていないので何冊読んだか分からない。今リビングにある目に付く本を数えただけで、だいたい100冊は超えていそうだから、寝室や職場にある本、人に貸している本、すでに手放した本などをカウントすると、200冊くらいかな。結構そこそこの量の本を読んだと言っていいかも知れない(もちろん質が大事だが)。1冊1,000円したと仮定すると、20万近く出した計算になる。著名な先生の講演会や、しっかりしたプログラムのセミナーなどに行くと、数万円かかることを考えると、本から知識を吸収するのは時間と労力がかかるが割に合っていると思えなくもない。

 

読書好きな人になら分かると思うけど、本を読んでいると文中に引用されている他の本や、参照として紹介されている本などが出てくる。元の本が面白ければ、この著者が薦めるのだからこっちも良書なのだろうと思い、その場でアマゾンマーケットプレイスで検索して発注する。こうして、家の中の本がどんどん増えていく。

 

今の興味の主な対象は、脳科学自閉症発達障害、心理学などだが、他にコミュニケーション、語学、経営などの本が加わる。また気分転換に小説や科学系の読み物に手が伸びることもある。速読にも興味があるが、フォトリーディング等の講座は結構高く、本当に自分にも効果があるのか半信半疑なので、踏みきれないでいる(こんな時は、10万円近いセミナー費用を駄目元といった感覚でポンと払える人がうらやましい)。

 

私は中学校の時に不登校になり、高校にも大学にも行かなかった。(でも昔の高卒認定の大検は取ったし、専門学校にも一応行ったし、大人になってから通信大学で学位を取ったから、堂々と胸を張って不登校と言い切るのにちょっと変な抵抗がある。でも皆と同じ時期に高校に進学しなかったというのは、結構特異なことだと思うから、まあいいか。)

学校へいかなくなってからの勉強は、主に興味と関心のおもむくまま、何となくこっちの方向と感じるままに、本を読んだり、勉強に首を突っ込んだりしていたら、いつの間にか今の地点にたどりついた。トラウマやウツでしんどい時期もあったけど、おかげ様で今の自分は結構気に入っている。発達障害、というか非定型発達者として与えられて発達してきたアンテナのおかげだと思っている。

 

いろいろな偶然と幸運がかさなって、ここまで来たんだなあと、自分の来し方を振り返ってみて、少し満足したり充実感を覚えたりすると、何だかちょっと嬉しい。

大人になった不登校児あるある

Facebookのプロフィールに書く出身校がないので、高校名や大学名の入力をうながす質問が表示される度にもやもやする。

 

途中から、大学に行っていない、的な選択肢が追加されたけど、なんとなくそれを選択するのに抵抗を感じるので、質問がいつまでも表示され続ける。

 

職場で学生時代の話が出た時に、選択科目は何にしたとか、大学入試は共通一次だったかセンター試験だったかといった話題で盛り上がると(トシがばれる)、ものすごく居心地が悪く、一刻も早く話題が変わってくれる事を心の中で祈り続ける(でも目立ちたくないので自分からは変えない)。

 

新聞などで「不登校」という言葉を見ると、「登校拒否」という言葉が一般的だった時の事を思い出して、時代が進歩したなあとしみじみしてしまう。

 

小学校低学年から不登校だったなどという年季の入った人の話を聞くと、筋金入りだとリスペクトを感じる(比較的短期間だったら大したことない、とかいったイミではないです)。

 

学歴ロンダリング目的で通信大学院やMBAの資格を取ることを真剣に検討したことがある(それが悪いとは思いません。トライしている人がいたら応援します)。

 

子どもの学校で心配事があるどうしようか悩む時に、いざとなったらフリースクールへ行かせれば良いと本気で思っている。

 

なんだか調子が悪くウツかと思って心療内科を受診したら、発達障害と診断された。ついでに家族もそうだと分かった。

 

うーん、他に何かないかな。

評価されたい、認められたいんだなあ

本業とは関係ないのに、心理学や脳科学などについていろいろ自分なりに勉強を続けているのは、自分の癒やしのため、息子の療育のため、職場の人間関係改善のため、好奇心の探究など、いろいろと目的や理由がある。でも、もしかすると、最大の動機は、「頑張っているね」、「すごいね、よく勉強してるね」などと、周りの人から思われたい、認められたいという事なのかも知れないと、時々思う。

 

私は中学校の途中から不登校になって、高校には行かず、大学にも皆と同じ年代の時には行かなかった。中学校の時、瞬間的に成績が非常に良かったので、家族も先生も、地域で1番良いとされる高校に進学して、どこでも好きな大学に行くと思っていた(後から知った)。だから、不登校後に一応卒業ということになって、高校に進学できず、1年待って地域でかなり評判の芳しくない学校に行くことになった時は、皆が残念がった。私は無理をして何とも思っていない様な態度を取っていたが、今思えば相当自分の感情を抑圧していたということに、気がついた(そういう感情を持っていたことを受け入れる気持ちに、やっとなることが出来た)。

 

たぶんその頃からずっと、自分の能力はこんなものじゃない、もっと実力がある、やる気を出して頑張りさえすれば、といった感情を、自分の内側に抱えて来たんだろうなあと、改めて思う(ちなみに、やる気を出して頑張ることが自分には難しいとは気づいていたけれど、それが努力不足ではなく、発達障害から来る脳のクセという事には、当然思い至らなかった。自分はナマケモノだと思ってずいぶん落ち込んだけど、今考えるとこれもトラウマだったんだなあ)。

 

そんな感情をはね除けたくて、いろいろ勉強したり、仕事を頑張ったりして来れたのかも知れない。アドラー心理学の本に、劣等コンプレックスを感じ、そこから脱しようとして努力するのは健康な心のはたらきといった事が書いてあった気がするけど、きっとそういう感じだ。認められたい病はみっともないと思って必死で抑圧していたけど、普通の感情だったという事かな。

 

私の中に、私を見て、ほめて、認めてと、いつも黙ってアピール(でもカッコワルイので声は出さない)している自分がいると思っていたけど、やっぱりいたんだな。心の森の中で、癒やしを求めて気づかれるのを待っているインナーチャイルドを、また一人見つけ出せたかな。

 

脳神経の刈り込み不足

ここ数日間の間に2回、自閉症の原因は脳神経の刈り込み不足ではないかという説が有力視されている、という情報に触れた。1回目は週末に受講した愛着障害のセミナーで聞き、2回目は最近出版されたばかりの書籍、「ハイパーワールド 共感しあう自閉症アバターたち(著:池上英子)」で読んだ。いずれもアメリカで活動されている方の話なので、最新の脳科学の研究結果なのかも知れない。

 

人間の赤ちゃんの脳は2、3歳くらいまでに大人の脳のほとんどが完成するそうで、脳神経が刺激に応じてどんどん発達するが、使わない、いらないと判断された脳神経は刈り込まれていくらしい。自閉症児の場合、この刈り込みがうまく行われず、脳神経が過剰に発達してしまい、あちこち繋がりすぎて、様々な支障が生じてしまうのではないかという事だった。

 

直感的に、なんとなくそうなんだろうなあという印象を受けた。自閉症の特徴のひとつに、感覚過敏があると思う。ある触感がダメだったり、音や光の刺激に弱かったりというあれだ。また、カメラアイや絶対音感のように、視覚や聴覚が並外れている場合もある。音や文字に色や味、においが伴っているように感じる「共感覚」も自閉症者に多いと聞いた。画像や音は、目や耳で受信した情報が脳に伝わることで意識できるのだから、脳のあちこちがつながりすぎているとしたら、伝わり方が過剰になったり、他の情報と混ざってしまったりするということは、何だか自然な現象の様に思える。

 

実際、3歳の自閉症児定と型発達児の脳を比べると、自閉症時の脳の方がいくらか大きいのだそうだ。また、非常に優れた視覚と空間認知能力で有名なテンプル・グランディン氏は、著書の「自閉症の脳を読み解く」の記述によると、脳スキャンの画像を見ると実際にある特定の脳神経が視覚を司る部位に入り込んで発達しているらしい。そのために視覚記憶がずば抜けているのだろう、と書いてあった。

 

もしも、この刈り込み不足が原因で自閉症が発生するのだとしたら、じゃあなんらかの方法で脳神経を刈り込めば、自閉症が「治る」のだろうか。実際、脳神経の刈り込みに関係するらしい遺伝子などについての研究も進んでいるらしい。確かに、自閉症で困っている本人、何とかしたいと思っている家族、その他いろいろな人たちにとって、もし自閉症が「治る」のだったら願ってもないことなのかも知れない。

 

でも私は、自分自身のことについて言えば、自閉症スペクトラムからもたらされている様々な特性を失うということに、どうしても抵抗を感じてしまう。少し前に、ようやくADD/ADHDという診断を受け、コンサータストラテラを処方してもらえる事になったときに、もしこれを飲んで、いままでの自分らしさが消えてしまったらどうしよう、としばらく服薬をためらっていた時のことを思い出す。

 

遺伝子を操作する技術が進歩して、そのうち知能や容姿、身体能力を自分の好きなように作り替えることができるようになる日がくるのかも知れない。その時、脳の配線も自分で操作して、自閉症らしさを完全に排除して、ものすごく標準的な「定型発達者」の神経回路に「整える」ことが可能になったりしたとして、そんな「標準的」な人間に、自分はなりたいだろうか。自分の子どもを、庭の植木を整えるように、刈り込みたいと思うだろうか。そして、そんな風に人々が均質化されたとしたら、人間は生き物として、環境の変化に弱い種になってしまうのではないだろうか。

 

自閉症の生きづらさに苦しんでいる人々にとって、困難を解消したり低減する方法が見つかるのは、福音なのだと思う。それを、誰が、どこまで、どのように、実行するのかと考えると、何となくいろいろもやもやしてしまった次第である。

 

 

これから書きたいことは、

発達障害の息子をもつ母として、また当事者として、いろいろ考えていることを書いてみたいと思っています。

 

(自分のこと)

- 生い立ち

- 原家族のトラウマ

- 自分のこと(ADHD/ADDと診断。発達でこぼこあり)

- 父のこと(たぶん高機能自閉症だった)

- 母のこと(たぶんADHD/ADD)

- 祖母のこと(たぶんADHD/ADDだった)

- 夫のこと(たぶんアスぺルガーでカメラアイ)

- 息子のこと(高機能自閉症と診断。現在個別支援級)

- トラウマからの回復

- 仕事のこと

- 育児のこと

- 勉強のこと

- 英語、中国語

- マインドマップについて

- 発達障害のこと

- 不登校だった時のこと

- 心理学と脳のこと

- affirmation

- 瞑想、マインドフルネス

- 読書記録

 

(息子のこと)

- 支援級のこと

- 療育のこと

- ワーキングマザーであるということ

- ペアレント・トレーニングのこと(CSP)

- 視覚支援のこと

 

書きたいこと、発信したいこと、息子のために書き残したいことは山ほどあるけど、なかなか考えがまとまらない。少し書きはじめると、なんだか脱線してしまい、どんどん長くなってしまう。

 

ブログにまとめながら、考えていることを整理できたらと思う。

 

 

 

アピールしないけど認められたい病

の、ようなものに掛かっているんだなと気づかされる出来事がありました。

 

職場の同僚に、どうもADHDアスペルガー気味なのではないかと思われる女性がいて、気になってます。理由は2つあり、1つは事務関連の業務に著しい遅れやエラー、トラブルが頻発していて、注意を向けざるを得ないという点、もう1つは、まるで自分自身の姿を見ている様で「あ、私って周囲からこんな風に見えるのかも」と日々気づきを与えてもらっているからです。

 

また、彼女はコミュニケーションが粗雑で、周囲との摩擦が度々生じています。私にとって特に気になるのは「敬語をあまり使わない」という点で、多少の事はまあ仕方が無いとスルーできる私も、なぜかこのことだけは、常々カチンと来て流せないのです。

 

何でだろうと悶々と考えるうちに、ああ、私は自分でも気づかなかったけれども、と言うかその感情をたぶん抑圧していたんだろうけれど、実は承認欲求が強いんだろうなと気がつきました。

 

私は自分自身では、遠慮がちで目立つことを好まず、陰で皆を支えるポジションが好きなつもりなのですが、それでもやっぱり、縁の下の力持ちの役割を果たしている(つもり)事に対して注意を払ってもらいたいし、認められたいんだろうなあと言うことに思い至りました。

 

だから、入社年次が私よりも後で、同年代の彼女に職場で、馴れ馴れしい砕けた言葉遣いで話し掛けられると、その「伏せているつもりだけど、気づいて認められたい承認欲求」の上を土足ですたすた歩かれた様に感じて、腹が立つのかも知れないと、今回初めて思いました。

 

その事に気づいてからも、彼女の態度には相変わらずカチンと来るのですが(もし本当に彼女がアスペルガーだとしたら、やむを得ない事なのでしょうが)、その一方で、声高に「私を見て!注目して!褒めて!認めて!」とアピールしないのに、周囲の注意だけはしっかり求めている自分のあさましさに、気が滅入る様になってしまいました。

 

今は、この感情とどう付き合っていこうか、いろいろ考え中です。何故こんな思考パターンが出来てしまったのかについては、心当たりがあるので、トラウマの解消が必要かもと思う次第です。